バクティは信愛・献身などと訳されます。
バクティヨガなんて言いますのでヨガに興味を持たれた方は聞いた事がある方も多いのではないでしょうか?
ここ日本は、「愛」というだけで胡散臭い・・・と言われてしまう国です。
このバクティを語ると「宗教じゃない?」などという反応もあるでしょう。
しかし、
「バクティがわからなければ、ヨガが深まらない」と言っても過言ではないくらいに大切な考え方です。
ヨガは「幸せになる方法」です。
あなたにとって幸せとは何でしょうか???
「何かをしてもらう事?」
「自分の欲しいものがもらえる事?」
「自分のしたい事が出来る環境を与えられる事?」
「お金持ちになる事?」
「素敵なパートナーに出会う事?」
これらは何でも、「くれくれ」ですね。
これらの「幸せ」は条件が全て自分の外にあることばかりです。
子供の頃はこれらの「欲」が満たされれば幸せでしたね。
しかし、人間は成長するのがダルマ(定め)です。
成長するのは身体だけではありません。
精神的に成長すると、幸せ感が変わっていきます。
そのダルマを放棄すると、社会は滅茶苦茶になります。
「くれくれ!」と言う者が増えれば、奪い合いになります。
上記のような事が「幸せ」だと定義した現代社会はそう…精神的に幼い社会なのかもしれませんね。
では、精神的に成長した大人は、何に幸せを感じるのでしょうか?
それは、「相手や周りの喜び」です。
何かをしてあげた時、感謝されたら嬉しくないですか???
つまり、「与える喜び」です。
思いやりの心が必要となります。
しかし、これすらまだまだです。
相手が喜んでくれなければ幸せを感じられません。
「幸せ」の主導権はまだ自分の外にあります。
さらに幸せの意味が、それによる喜びが理解できると、「奉仕」する事が無上の幸せだと気付きます。
相手の反応がどうあれ、相手に喜んでもらう為の努力に「幸せ」を見出すのです。
それは、つまり「愛」ですね。
愛は見返りを期待しません。
「期待してはいけない!」
のではなく、
期待する必要がないのです。
人間は本来「献身」することに幸せを感じます。
これは恐れや、媚び諂う事とはまったく違います。
皆さん頼まれてもいないのに、犬や猫を飼って服従してないですか???(^_^;)
お世話する事に喜びを感じる証拠でもありますね。
本来バクティの対象は、「パートナー」であり、「親」であり、「グル(先生)」です。
それらは「イーシュヴァラ」の具体的な顕れと考えるからです。
しかし、この世は全てイーシュヴァラの顕れです。
最終的には「この世の全てに愛を持って接する。」
という事になります。
さて日本では「忠犬ハチ公」など、献身的な象徴ともされている犬ですが、
上の写真は犬が人間に従っているのでしょうか?
人間が犬に従っているのでしょうか?(^_^;)
「くれくれ!」と言う関係は主従関係でないと成り立ちません。(対等だと喧嘩になりますから・・・)
自発的な「献身・信愛」は対等な関係を築きます。(自発的・自主的が大切なのはヨガの基本です)
どちらの人間になりたいですか?
どちらの社会が幸せだと思いますか?
写真の人間と犬は対等に見えますね。
そこに「愛」あるからでしょうね。
相思相愛です。
イーシュヴァラと相思相愛になること。
イーシュヴァラを喜ばすこと。
それが、「ヨガ」という生き方であり、「バクティ」と言えるでしょう。
このお話しは話すと長く深くなるので、このブログではこの程度で・・・